OK、カンヌ。
芸能人がいないレストランほど、うまい料理が食べられる。
カンヌ映画祭。
軸のずれた食欲、馬鹿げた過食症、夜の誘惑。
この2週間、カンヌは、ひっくり返った胃と集中力に欠けた脳で生きぬかなければならない。
映画と食は、理想的なカップルであった試しがない。
確かに、「タンポポ」、「バベットの晩餐会」、「最後の晩餐」、「手羽先かもも肉か」等の崇拝的映画は存在し、シャブロールのようなグルメな映画監督もいる。
しかしオペラの世界では、たとえ小さな公演会であっても、その後の晩餐会はつきものだというのに、映画愛好家は、暗いホールの肘掛け椅子だけに満足して終わる。彼らが暗室を後にするのは、ひらめの塩包みやノルウェー風オムレツというデザートアイスなどの美食を求めるためではない。
胃は、ノスタルジーにふけり、細切りのポテトやエンドウ豆のソテーの存在しない、コスメティックな世界で、夢を見ている。生死の裁判所から通告をうけて、地獄の辺土にたっているようだ。
そして、キャビアの粒が、口の周りに人工のほくろを作り、ラングスティンのサラダやスズキのタルタルがどんどん流し込まれ、DVDを差し込むように、クロック・ムッシューが口の中に放り込まれる。
腹が減らない奴らの食事。
カブをのぞいて、成功している料理は数少ない。
カンヌ映画祭の間、シェフは食欲の曲がった客の為にやりがいのない仕事を続け、しばしば失望の中に消え去っていく。そして、高速道路を逆進したあげく、がんがんとなり響く値段の高い料理が出来上がる。
彼らは、そのメランコリーを応急処置するため、マカロンでカメラを作り、チョコレートとホワイトチョコレートのフィルムを入れ、有名な芸能人に、子牛の頭をささげ、自己満足にふけ続ける。
料理は、孤独な未亡人になる。
頭の上でおしゃべりされ、ブランマンジェの中にタバコをつぶし消され、イカのフリカッセはビジネスプランを製作するために押しやられる。
しかしこの15日間、厨房では、敵船に乗り込み、不可能に挑戦する勢いで、関心を集めるために、バルサミコ酢やショウガ入りマヨネーズやエンドウ豆のクリームでできたアミューズ・ブッシュを投げ出し続ける。
移り気で、いつもせかせかと急いでいて、多様な地域からやってくる客は、音が立つほど冷たい白ワインを注文したり、ソース抜きの舌ビラメや、ポテトなしのステーキや、生クリームなしの洋梨パフェしか注文しないことを、彼らは知っている。
そのけなげな料理、りきまない詐欺心(悲鳴を上げるほどの高価格!)、ユートピア、運命、映画を共有しているという所有感とともに、厨房に立つ。
スターになることは、エビの触覚のフリカッセがうまい間でしかないだろう。
グランホテルのレストラン、ル・プレ・キャレでの初めての食事。
すごく表面的で、人工的。映画祭の期間外にきたとしても、そのちっぽけなコースメニューは変わらず貧弱なものだろう。
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