Pixarの最新作「ラタトゥイユ」は、パン・ド・ミを丸めただんごの世界に観客を引きずり込むような、熱狂に満ちた映画だ。
物語はいたってシンプル。
小さなねずみのレミーは、シェフになることを夢見ている。
そしてもちろん、彼は夢を叶えるわけだ。
舞台は、ガストロノミーの首都、パリ。
ここで既に、我らの偉大なシェフたちが、パン・ド・ミの新作カナッペを開発したり、カウンターを飾るメレンゲ状の天井に穴をあけたりして、更に目新しい展開を披露するのに、躍起になっている様子が目に浮かぶ。
普段、厨房の敵であるネズミが、ここでは逆に料理人たちを馬鹿にしている様子はすこし悲しくもあり、どんなにのろまでもシェフになれる、という平等主義感覚は、すぐには受け入れがたくもある。
しかし実際によく考えてみると、世界はこんな風に回っているものだ。
ランジス市場から仕入れた絶品のイチゴに、タガダのイチゴ飴味をしみこませ、スーパーモデル風のウェイトレスがその一品を運んできたら、もう30分後には、インターネット上で騒ぎが起こり、続いてプレスが駆け回り始め、観客はそれに大きく拍手するだろう。
パリが、「ゴーゴー」の街であったことを忘れてはいけない。
人は、シェフをスターにして祭り上げるけれど、「通」の人からしてみると、彼らのレベルはかなり低かったりする。
「ラタトゥイユ」もその一種で、コメントする暇がないほど加速したあげく、フラッシュがいくつも向けられたジェットシェフを生んだ。
インスタント飯は有名だが、ここじゃインスタントシェフだ。
この歯磨き粉のコマーシャルみたいな紋切り型は、ガストロノミーの世界では新しい話ではない。
料理は、常に美化された幻想の世界で機能しているからだ。
そうじゃなければ、トイレ掃除の手袋くらい悲しく絶望させる子牛のエスカロップより、うまそうな paniersnitzel を好むかだ。
「ラタトゥイユ」は、過剰な冷笑感、あきれるほどの縮小表現(客層の雑写)、牢屋か、軍隊か、精神病院から出たての面をもった料理人の風刺をもち合わせながらも、のびのびとした雰囲気を生み出している。
何人かのフランス人シェフ(ダローズ、リニャック、サボワ)が、長期に渡って、監督のブラッド・バードとボブ・ピーターソンにアドバイスをしていた。
棺の形をした仕事部屋を持つ料理評論家、アントン・エゴを皮肉描写するのに、何時間もかけていた様子が目に浮かぶ。
しかし驚いたことに、このエゴ氏は、評論家の立場から、郷愁を誘うラタトゥイユの驚異を公表するために、自身の地位を失うことを省みない。
そしてそのラタトゥイユはというと、なすとズッキーニとトマトが情けなく円形に並べられたもので(97年にアメリカではやったフィンガーフード風)、それは僕らがよく知っている、あのよく煮込まれて具がとろけるラタトゥイユからは、程遠いものだった。
どんなネズミでも、映画監督になれるんじゃないかと思ってしまう。
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