料理人の影には、常にじっと見守って、支援し、援助して、励ましつくす女性の存在がある。
ほとんど表舞台には出ないのだけれど。
それは、沈黙と謙虚を学んだからに違いない。
パリのレストラン、ステラマリスで、夫のタテル・ヨシノに付き添ったミチコ・ヨシノが、その一例だ。
30年前の東京。
彼女が恋に落ちた時、外では雨が降っていた。彼女は無意識のうちに、彼がぬれないように、そっと傘を広げる。
その時の仕草が、彼の心に刻まれた。
ある日彼女は、方向性を専門とする占星術師に出会う。
占星術師は、この2人に素晴らしいが辛酸な人生を予期する。自分の人生を費やしてしまうだろうが、2人で西へ進み、3つの山をこえるよう、その占星術師は予言した。
そして、現在その地で、タテルが長年待ち続けた、ミシュラン一つ星という栄誉を手にする。
僕も端からながら、彼の長年の苦労とミシュラン2つ星に値する才能を持ちながらも評価されない苦しみを、我が身のように見守ってきた。そして、ミチコが微笑みながらも辛抱強く、どれほどの山々を超えてきたかを目の当たりにしてきた。
その小さな背丈と小枝のように細い体で、確信を持った強さを放ち、躊躇を克服し、無理矢理にも「光」を運んできていた。
しかし、内心では苦しんでいたのだ。何も言わずにこんなにも。
いつものせっかちな口調やそのハイテンションぶりは、ずっと変わらなかった。
レストランに星がつくことを、シャンゼリゼから程近いホテル・ダニエルのサロンで、彼女は数週間前に知ることとなる。
彼女は後ずさって微光の中へ涙を拭きに立ち去り、そして戻ってきた。
彼女の締め付けられた心の中には、一枚の手紙の存在があった。
僕自身がそれを知ったのは、ずいぶん後になってからだが、その手紙は離婚届用紙だったという。彼女はそんな重荷を心に抱えながらも、力一杯振る舞っていた。
しかし、西国が悲しみの深淵におちる瞬間がある。
先週の水曜日、ANAの日本行き便に、9席の予約が入った。
京都から近い彼女の生まれ故郷和歌山に、意識不明のミチコを連れて帰る為だった。
パリの甘酸っぱい石畳みを後に、穏和な辛酸を再び味わい直すために。
彼女は、秋の楓に包まれながら消え去っていった。
楓は燃え上がるような季節をつくる。
今ではそんな楓たちが、彼女の為に傘をそっと広げているかもしれない。
Photo / F.Simon
今頃済みません、でもコメントせずにはいられなくて。彼女のとてもドラマチックな人生をこんなに美しく端的に表されている文章に感服しました。
投稿情報: yyy | 2007年11 月 1日 (木) 08:58