長期に渡る病の末、1月7日の朝に71歳で他界した、レストラン「タイユバン」のジャン=クロード・ベリナ氏について、記事を書くようにいわれた。
そんなわけで、フィガロ紙のために僕が書いた文章をここでもご紹介。
オラトリオ会士によって育てられ、HEC(高等商業学校)を1959年に卒業。
彼がこの職を選んだのは、なんだかミステリアスな気さえしてくる。
エレガントなツイードスーツと、エルメスそして近年ではルイヴィトンのネクタイに身を包み、教育参事会幹部の振る舞いと、冷淡な美食家の装い、ラムネ通りのプライベートホテルから現れるその姿が、僕らが知っている彼の人物像だ。
平然としたマスクの下には、単数的なぬくもりを感じさせる細かな笑みが見られ、そこには大海ほどの情熱が存在する。
ジャン=クロード・ベリナ氏は、フランスガストロノミーのシーンで活躍した著名人の一人だった。
周知の事実だが、レストラターはレストランの経営管理する者を差す。
そんなレストラターの彼は、シェフ(アラン・ソリヴェール)とその厨房チーム(「タイユバン」では47人)の指揮をとった。彼自身、厨房には立たないが、どうすればうまいものが作れるか、という根本を悟っていた。
最新技術に関心が高く、「タイユバン」にエアコンが取り入れられたのは1977年。コンピューターシステムの導入は1982年にまでさかのぼる。
そんな一方で、ジャン=クロード・ベリナ氏は、常に「親近感」を拒んできた。
彼は父親がもっていたビジネスを後継した。
父の名はアンドレ。
アピシウス、ボーヴィヤール等、食世界の歴史上、多くのレストラターがそうしてきたように、彼も自身のレストランを「タイユバン」と名付けた。
「タイユバン」は、シャルル5世とシャルル6世時代のノルマンディー侯爵、フィリップ・ドゥヴァロアのおかかえ料理人、ギヨーム・チレルの愛称だった。紋章は、6つのバラが溢れる3つの鍋。
ここまでは、単に「興味深い話」に過ぎないが、前述のチレルは、今でも熱くおすすめしたい孤高な著作「Le Viandier」を出版した人物だった。この本こそ、この世に初めて誕生した料理本だった。
1948年、ラムネ通りにミシュラン星が一つ落ちる。
そして1956年、2つ目の星が着地。
1962年には、ジャン=クロード・ベリナ氏が、経営グループに仲間入りする。
1973年には、その年に昇進した数々のレストランの中に、「タイユバン」もその名を連ね、3つ星を獲得する。この年は、パリ、ピローのVivarois、ヴァランスのピック、ミオネイのアラン・シャペル等々、めまいがするような星の連射だった。
3つ星獲得時に、ジャン=クロード・ベリナ氏が当時のシェフ、クロード・ドゥリーヌに向けたコメント:
「我々は、まだ他の3つ星レストランほどのレベルに達していない。改善する部分はたくさんある。」
これこそ男の中の男!
ジャン=クロード・ベリナ氏は、牡牛座だった。
娘のヴァレリーはこう語る。
「彼は女性軽視の部分があり、きつい性格だけれど、間違った発言は決してしませんでした。」
「タイユバン」は、今では数少ない家族経営の高級レストランの一つだ。ロアンヌのトロワグロ、カンカルのロランジェ、パリのベルナール・パコーがその代表格。
このモットーこそ、ジャン=クロード・ベリナ氏が、基盤のある完全なブランド「タイユバン」の看板を守り通し、いくつも支店を広げずに貫いた所以だろう。
1994年から2004年まで東京で企画された、タイユバン&ロブションのシャトーは、ほんの例外にすぎなかった。
一方で、フォーブール・サントノレ通りにある「カーヴ・タイユバン」と、日本に数カ所ある「タイユバンコーナー」は、りっぱにメゾンのモットーを守り通している。
そして、レストラン「アングル・ドュ・フォーブール L’Angle du Faubourg」 は、今では逸話的な多様化政策の一貫だったが、ミシュラン1つ星を獲得して、失敗を免れている。
副社長だった彼の娘、ヴァレリー(40)は父親の後継者となるだろう。
彼女自身、常にレストランに顔をだすわけではないが、父の意向と価値概念「誠実さ、情熱心、厳格性、完璧さ、そして質の追求」を引き継いでいくに違いない。
18時45分。その夜は、1番テーブルに空席があった。
ジャン=クロード・ベリナ氏が、いつも食事をしていたテーブルだった。
葬儀は1月12日、11時からパリのマドレーヌ寺院で。
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