今の時代、同じ通りに面した2件のレストランを比較することすら容易なことではない。
各レストランには、彼ら独特の歌があるからだ。みんなで口ずさんだ共通の国歌というものは、もう存在しない。
指でつまんで食べる揚げ物料理であるとか、巻き尺みたいな模様を描くアンドゥイエットであるとか、長枕みたいに飾られたロッシーニソースであるとか、それぞれのレストランがそれぞれの味とセンスをもっている。
現在のガストロノミー界には、基準となるものがなくなった。目印とするものがない。
そのおかげで、ガストロノミーがより魅力的で、センスに輝くものとなった。
僕らにとってもそれは喜ばしいことだ。
ところが、そんなガストロノミー全体を、一つの箱に押し込もうとしたらどうなるだろう。
入りきれずに四方からはみだし、軋みながら押し合いになるに違いない。当たり前の話だが、収まりきらない。
そんな状況を想像して、イギリスのRestaurant 誌が、野望にも、世界で最高のレストランベスト50を発表した時、一番にあざ笑ったのは僕らだった。審査員がほとんどローストビーフ(イギリス人への蔑称)だっただけに、ただの子供遊びに見えたからだ。
そこで、助け舟を出すために、僕らは何回かアポを取ることになった。しかも、批評して「はい、おしまい」ではなく、僕らには密かな企みがあった。
アングロサクソンの国に大きく偏った審査員の出身地域をもっと均等にすること。以前の審査員リストには、カナダが1票、アジア各国は0票という有様だったからだ。
この3年間の連携プレーで、その問題点を少しは克服できたし、新世代のシェフや新しい料理評論家を仲間入りさせることも出来た。
しかし、どうしたことか、いつも同じ審査結果に至ってしまう。
フェラン・アドリアからはじまり、彼のクローンシェフ、ヘストン・ブルメンタル、そしてパリのピエール・ガニェール。この3年間、このトップスリーシェフは、表彰台の定位置から動いていない。
似たようなシェフが牛耳る、馬鹿げた順位付けの保守主義は変わらなかった、というわけだ。
ジョエル・ロブションのアトリエが、5つもこの順位表に登場することに、文句をつけているわけではないが、事態は普通ではない。
現実はこの審査結果とは程遠い。
ヴェルサイユにオープンした、ゴルドン・ラムゼイの18つ目のレストランがそのいい例だが、世界は、仮想シェフからなるレストランや、金太郎飴みたいに有名シェフの料理を再生するシェフからなるものではない。
また一方では、これはかなり面白い状況であるとも見れる。
不条理極まる世界の中で、自分で自分を尾っぽから飲み込み始めた、という証拠だろう。
料理の種類は多様で、できもいい。流行りの赤ビーツのムースだけで、後数年生き延びられるだろう。
しかし、仮にそんなままごとをすべてやめてしまったら・・・。
食いしん坊たちは、イメージやマークや崇高な不在だけでは満足しきれないはずだ。ドゥバイに発つアラン・デュカス、香港へ発つピエール・ガニェール、モンテカルロのジョエル・ロブションらの料理が、本当のガストロノミーだろうか。
それは違う。肝心なパーティーはもっとシンプルな次元にあるはずだ。
つまり、料理の逸楽。
これだけはどこの国にも存在する。今回訪れた、鉄道と高速道路に挟まれたタオルミーナの小さなレストランにも、上海の Jade 30th にも、イスタンブールにも、大阪にも。
地球は絶え間なく動き続けている。
世界中のどこでだって、うまいものにありつける。
綺麗に並んだ玉ねぎや、2列に行進するエンドウ豆みたいに、逸楽に順位をつけても意味がない。家庭のキッチンを始め、世界中で、愛情や気品や情熱がこもった料理が作られる。
たった50件のレストランだけが、地球上に存在しているわけではない。500万人の料理人とそれだけのレストラン、そのまた10倍ほどのおいしいものに目がない人間が存在する。
カーブを曲がって、このベスト50を忘れてしまおう。
興味深いけれど、大して意味がないからね。
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