毎年同じ時期にやってきて、それがどこか麻疹にも似ている。
ヨーロッパののど自慢、ユーロヴィジョンみたいに、その年のベストシェフが、警告もなしに選ばれる。そこには感情もルールもない。どんな風に審査されているのか、という論理がつかめない。決まり事はあるのだろうが、果たしてそれが審査員に守られているのかは、不明である。
その名も、世界のベストレストラン50。年に一回、レストラン関係者、シェフ、ジャーナリストが審査員となって、世界のレストランを評価する。審査員自身が、どうやって点数をつけるのかはっきり把握できていない。時間もないし(基本的に、シェフは厨房の中にいるはずだし、万が一有給休暇でレストランにいない場合は、大抵そのシェフの友人シェフらも同時に店を閉めている事が多い)、お金の余裕もないし(高級レストランを経験するには、大金を要する)、時には審査をするにあたっての才能にも欠ける(レバノン産のひよこ豆ムースとシリア産のひよこ豆ムースの違いが、誰に分かるだろう)。
運のよさ、共犯性、コミュニケーションの猛威、友人シェフの宣伝に熱心なロビイストの権利。それらが集まって起こった偶然の一致で、投票はぶるっと震え、一番メディアティックなレストランが、教皇の口づけを受ける。
それが、フェラン・アドリアの「エルブリ」であったり、ロンドンの近郊ブレイ市にある、ヘストン・ブリュメンタールの「ファットダック」であったりした。そして来週の月曜日、それがコペンハーゲンにあるレストラン「ノマ」になる予定だ。ずば抜けた才能を持つルネ・レズエピシェフが率いる、素晴らしいレストラン。素朴でミネラル感が溢れ、彼の故郷の風味がほとばしる料理。
今回のチョイスは完璧だった。しかしその後がいけない。
普通に考えて、1年間で世界中のレストランを1000件以上もまわれるはずがない。みなさんの謙虚な奉仕人(僕)は、毎日飛行機に乗ったり、車で走り回ったりしているのに、パリ6区にあるレストランのランク付けでさえ、苦心している。ミシュランだって、毎年挫折し、目標に到達できなくなった。ただ、点数付けをすること自体に、意味がなくなったのだ。
50年代に見られたフランス料理のような、絶対的な料理が現代にはなくなった。
ペルー、ブラジル、トルコ、レバノン、シリア、ベトナム等、未来の先進国料理や、イギリス、北欧、オーストラリア等、特に伝統料理をもたない国の料理のうれしい乱入で、料理の表現方法が何十倍にもなった。
しかし、ガストロノミーの滑稽さは変わらない。それ自身に笑劇的なものがある。フランス人の料理が、無形遺産に登録されたのも、同類のコメディだ。ガストロノミーは、その時代に似た性質をもち、そして今の時代を生きるそれは、グロテスクで、偽造者で、下品で、嘘つきで、インチキなレモネード売りのいいなりになっている。意味もなく話題の中心になるけれど、たしかにそれがいい戦略かもしれない。
Photo / François Simon(レストラン「ノマ」にて)