セレブリティというものは、興味深い要素だ。
きっと、シェフが作り出すレシピの中で、最も恐るべきものに違いない。メディアのジュレみたいなもので、瞬間的にこちらを凝固させる様子は、まるでメディアの卵のようだ。丁重に僕らを鵜呑みする。それは、雪で作ったボールとも表現できる。シェフは、才能に麻痺した世界、昏迷の中で透化した世界にいる。そして星は雪の結晶のように落ちるのだ。
最近星を獲得した、この類いのシェフをご存知だろう。たしかに、彼らは幸福ではあるが、ディレクターにはサディックに振る舞い、自分の好きなことしかせず、しまいには頭でっかちになって、入り口さえ通れない。(しまいには厨房にも入れなくなる。)
栄誉が、彼らを連れて行ってしまった。託児所みたいに、彼らを管理しておいてくれたらいいのだが。
ル・モーリスのヤニック・アレノも、この類いの砂漠を横切ったのだろうか。
きっと、そうだろう。それが料理にも表れて、愛好者は一歩身を引いた。一番いいのは、泡を消えるがままにしておくことだ。
先日、僕は夕食に向かった。
スフレはよく休ませてあり、魔法的な筋力が再度、彼の料理に見られるようになった、とクリスチョン・ミヨ氏が、僕に耳打ちした一件を思い出していた。彼はそれを「活気」と呼んだ。凝固からは程遠い、マジカルな動き、フライパンをひっくり返したような、鍋のバック返しのような。
料理は、静止したものであってはならない。
それがたとえ寿司であったとしても。その場で切られ、目の前でにぎられた時には、儚い恩恵の瞬間を感じる。魚はそっと置かれて動きを止める。料理がその人生を終えた瞬間だ。(とはいっても、それは食べられて、僕らの口腔空間で、魂が天に昇る過程を踏むわけだが。)
ヤニック・アレノの料理は、詩的な魔法の類いに属していた。
ディスク状の皿の上に、催眠術的に飾られた点描波長の前菜。それは、生の車エビに始まり、うにの舌、ジェリー状にしたカブのブイヨン、紫蘇の葉。これらは、曲芸的な素晴らしい仕事の成果で、かりかりになった極小の数字のなかに入れられたエビの足のように、突飛なものを推進していた 。
サン・ジョセフの赤ワインの占い師のもと、酸味の少ないレモンで絡められ、コロンタのラードで味付けされた野うさぎの背肉は、豆のピューレが入ったカカオのラビオリが添えられていた。
主菜が、これほどまでにとどろいた場合、デザートがその後の道を切り開くことは、かなり難解だ。それでも舞台へ登り、台本にない歌を奏でた。
確かにうまかったけれど、はやり置き去りにされた印象をうけた。
サービスディレクターのウィルフレッド・モタンディ二は、笑顔で機転が効く。素晴らしい大理石と鋭い照明。美食好きな客層は、ミイラ的で盛大なミサの風景と打って変わって、またいいものだ。
余談だが、ロベルト・フランケンベルグの素晴らしい写真と、カズコ・マスイのテキストからなる、アレノの豪華な本が、グレナ出版から発売された。
カズコ・マスイは、ガストロノミーの世界で、直感を2度得たらしい。ジョエル・ロブションとヤニック・アレノだ。
ムームーな会計。直立でブレーキをかけなかった場合は、2人で350ユーロ。
Le Meurice
228, rue de Rivoli - 75001 Paris
Tel : 01 44 58 10 10
Photos / F.Simon
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