料理は、限りなくシンプルな状態で食べるべきである。プールサイドで、日差しの下で、屋外で、あるいは、真っ裸で。井戸から顔を出した真実みたいに、素っ裸な状態。そこでようやく、お互いに話し合える。しかし、何も言わず、流れにまかせておいてもいい。
冗漫なシェフが作った、鯛の一皿が忘れられない。青く染まった地中海岸のテラス席に、その一皿は時間をかけて運ばれてきた。料理名は、長かったように思う。風が、何気なしに吹いていた。しかし、それが、料理を真っ裸にしてしまう、という、ショーを披露することとなった。ウェイターが、「奉納品」をもって前に進むたびに、風で料理がどんどんはがされていく。パウダーや、ハーブが飛び散り、テーブルに着くころには、鯛が皿の上に寝転んでいるだけの状態だった。それがまた最高だった。
料理は、大理石のブロックから余分な部分を削り取り、形を作っていく、彫刻のようなものなのかもしれない。
若くして他界した偉大な料理人、アラン・シャペルも、そんな傾向をもっていた。今のシェフも、3日ひげなんて生やしていないで、それを見習うべきだろう。
「このアスパラガスは、湯がいただけで素晴らしくうまいのに、なんでパイ生地なんて余分なものをつける必要があるんだ?」
プールや浜辺で頂く食事も、そんな料理が望ましい。はだしになって、元気な筋肉と軽い頭で、無邪気に歩く。「考えるな」と、ニーチェは言った。彼も、厨房までいって、シェフの指導をしてくれればよかったのに。
ドイツ料理を、きまって馬鹿にし、イタリア料理を絶賛する。イタリア料理は、世界料理に影響されていない、そのままのものが、素晴らしい。
ぐうたらの食べ物は、エスプリに直接響く料理だ。そんな食べ物は、軽いから、体に負担をかけない。最高の料理は、不足を感じ、空腹をただ磨くだけで、ぎゅうぎゅうにはつめこまないような料理だ。
Photo / F.Simon