この間、ミシュランの日本版について掲載された、ある新聞記事を読んでいたところ、思わず椅子から転げ落ちそうになった。その記事は、だいたいこんな風だった。
「ミシュランのおかげで、日本はやっと、自国料理のすばらしさに誇りを持てるようになるだろう」
勝手にやってくれ・・・。
こんな事態だから、僕がフィガロ紙に掲載したものを、ここでもお披露目する。
- - - - - - - - - -
他人の視野は、時として勉強になる。
普通なら、探しまわって、運よく見つけた他人の宝物を、自分のものにもできる。
それで、自分の視野がより広くなったりするわけだ。
しかし、言葉数の少ない人に惚れ込んだり、意味もなく話し続ける人に感動したりするような(理解できない)場面に遭遇したりもする。そんな、自分の嗜好や考えから一歩はなれた世界が、他人の視野だ。
その場のしょうもない雰囲気にはまり込んだり、忘れられていたレストランや、スノッブなレストラン、いい扱いをされていないレストランに、夢中になったりもしてしまう。
「タイユバンが、星を一つ落とす?」
イギリス人は、何かと機会をつくって、又一度足を運ぶ。これだから、ミシュランが、エトランジュ(「外国の」又は「妙な」の意)なガイドブックになりかねないわけだ。
でも今のところ、ミシュランが本社を構えるブルティユ通りを離れると、そのガイドブックの発売は、現地の人々に、大して歓迎されていないようだ。ちょっと時代遅れな、フランス愛国主義が、度を超しているのだろう。
2006年度のミシュラン、ニューヨーク版を覚えているだろうか。
その魅力的な世界の大都市には、すばらしい料理がたくさんあるのに、3つのフランチのチェーン店、デュカス、ジャン=ジョルジュ、ベルナディンと、フランスからかなりインスピレーションを受けた、トーマス・ケレーの「ペルセ」しか好評されていなかった。
ミシュラン東京版の発売を待ちながら、脱力して、あきれかえっているわけではない。しかし、どんなふうに審査が行われたのか全く謎だが、2007年度のミシュラン、パリ版で、日本料理レストランが、6件しか取り上げられていないところを見ると、東京版のそれに、たいした期待ができるだろうか。今から既に、デュカス、ガニェール、ロブション、トロワグロが、その名誉を洗いざらいかっぱらうのが目に見える。
でもなぜ、謙遜すればするほどその価値が上がるような国、ニッポンに、フランスの勝手なエゴイズムを、持ち込まなければならないのか。
ミシュランが、異国籍料理にも、その規定を押し付けたい気持ちが押さえきれない旨はよくわかる。昔の思い出にすがって、ものごとを前に進めず、新しいエスプリをもちあわせていない証拠だろう。
日本は、フランスの、遠隔植民地ではない。
実際、 食欲という強力な世界は、規則を押し付けたい一種の組織や権力者からは、どんどん遠い存在になってきている。統計では、ガイドブックに頼らずにレストランを選ぶフランス人の割合が増えたという。
政治、文化、モード、宗教と同様、消費者は、ひょうひょうと辺りをさまよっている。
レストラン選びは、家から近いか、親切か、好意的か、寛大かどうか、で決定される。
ガイドブックをバイブルとする人は、もう数少ない。
フランス人が日本料理を食って何年?日本の何を知ってるの?って思うよ。
30年前に、グランヴェーフルの元料理長レイモン・オリヴェが"西洋料理食卓史”で、さんざん日本料理の欠点を書き綴っていたけど、日本食に関する資料の無いミシュランは、そりゃ随分と参考になったと思うよ。
そんな状況下にMOFをもらっちまった辻静雄(故人)やホテルオークラの小野正吉(故人)等が自国の料理を「そっちのけ」でフランス料理最高とか言ってたのだから、原因は小心者で本音を言えないバカな日本人にもある。嫌、先代の日本の料理人達が馬鹿すぎたとしか思えない。未だにそうだが、伝えに行ってる料理人は皆無で、学びに行ってるだけ。
中国人を見習えと言いたいよ。
日本料理を知らない日本人が「すし」を流行らせ、それを日本料理と言うフランス人には罪はないだろう。
ただし、
レイモンド・オリヴェなんぞ口の中がバターで膜を貼るようなソースしか作れない男に、“出汁”という観念があるのかも疑問。日本に2回しか来たことのない男の批評が料理番組や本を通じてフランス全土に広がったわけだ。
スタッドレス技術の無いミシュランが、ブリジストンを批判するような滑稽な姿に似てるね。
しょせんはミジュランという企業の評価であって、フランス国民がそう思ってるとは思えない。
投稿情報: 幸弘 | 2007年4 月12日 (木) 03:22