「気鋭のフードジャーナリスト、フランソワ・シモン、犬養裕美子が日本の星付き系レストラン13件実力判定」
カーサ・ブルータス編集部からのお誘いで実現した、フランソワ・シモン、日本の星付き系レストラン食べ比べ旅行の総決算号。
現在発売中のカーサ・ブルータスをお楽しみください!
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正直言って、そんなものは存在しない。 しかし、それがまたひとつの魅力かもしれない。
「カーサ・ブルータス」から託された、匿名での星付きレストラン16件巡りの旅を終え、わかったことがある。
日本のフレンチが、大抵の場合、わかりやすい料理をすすめるチェーン店レストラン(ジョエル・ロブションのアトリエ、アラン・デュカスのブノアとベージュ)か、リスクの高い、本店の分身レストラン(ガニェール、ブラ、オーベルジュ・ド・リル、トロワグロ)か、客を馬鹿にしきったレストラン(ポール・ボキューズ、ギィ・マルタン)か、状況を把握していないレストラン(ゴルドン・ラムゼイ、サン・ポー)か、かなり悲惨な状態のレストラン(アラン・シャペル)かに、区別できてしまうことだった。
この8日間の食マラソンが、僕の思考を更に深めるすばらしい機会であったことは、間違いない。
しかし結局は、真の歴史を感じ、シェフ本人が厨房にいる、現地の本店に勝るレストランは存在しない。
あとは、マーケティングや、ハエベルラン、ボキューズ、ポーセル等、料理界のマフィア、ヒラマツのビジネスで、格好だけの冷笑的な部分が、20世紀末を思わせる。
興味深い話だ。
次回の旅は2週間後。
これもまた日本へ。(sorry, その後は、少し落ち着くつもり・・・)
知的なことに、著書「源氏物語」を求めて、京都、奈良、大津等の寺巡りだ。
投稿情報: 21:30 カテゴリー: ジャポン | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
このレストランへ足を踏み入れた時、僕の体は完全に疲れ果てていた。
8日間で16回におよぶ、高級レストランでの食事。
いいように聞こえるが、離反している。
そんな一方で、レストランの不甲斐なさや、逆にまた、素晴らしさも体験できた。
そしてこの美食旅行の最後となるディナーに、「カーサ・ブルータス」は、カンテサンスを指定してきた。
食べ終わる頃になってから、若いシェフが厨房から顔を出した。
彼の名はシンゾー・キシダ。
一目見ただけで、料理に人生をかけている、その信念が伝わってくる。
お世辞や、名誉や、金だけを追求しているわけではないことを語る彼の目は、はるか遠くを見つめていた。
その繊細な感性から、おびえながらも突っ走り、疑惑と疑問と自答に打ちのめされた料理の世界へ潜り込んでいるようだ。
飾り気のない無垢なゾーンは、我々がもっとも好むものだが、彼はそこへ入り込むために、感激して一から学んだ伝統フランス料理を、うまく交わすこととさえできている。それは、無駄なもの、ソースや重くてカロリックな材料を省いた料理だ。
ここに、骨格ははっきりしていながらも、強すぎる印象や激しい彩色の混ざらない料理が出来上がっていた。
カサゴ、新玉ねぎのスープやほろほろ鳥のロティーがその一例だが、発泡性のガスパチョの中にあるだろうミネラル感を思わせる、純粋で忠実な料理。
しかし、心構えして行くことだ。
軽く見えても、その仕事は真剣そのもので、ワインと一緒に頂くこの料理には、素直に感激してしまう。
間違いなく、今回試食し続けたレストランの中でも上位に入るレストラン。
www.quintessence.jp
投稿情報: 21:34 カテゴリー: ジャポン | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
ブノア。
レストランに入ってすぐ、どことなく違和感を感じた。
問題は、フランスの気難しいパロディーのなかに滑り込むような、的がはずれたこの内装にまずある。
レモンの木が寄生したベルサイユスタイルの玉縁、「ビストロ」の過剰明記、かなり騒々しい雰囲気をもつアンティークショップのようだ。
ここは、数年前にアラン・デュカスによって買収された、味わい深いレストラン「ブノア」からは程遠い。
パリ、オテル・ド・ヴィル近くの「ブノア」は、本物の保守的なパリスタイルのビストロで、バンケット、銅製のオブジェや、モザイクの入った窓ガラスがノスタルジーを呼び起こす。
リヴィエラ、古いクラシカルなフランス、ビストロ料理、インターナショナルなレシピ、日替わり料理と、多国籍なスタイルを使いまくることで、メニューが手渡された途端、このレストランが、主題から完全にずれたレストランになってしまっていることがわかる。
がしかし、料理は、うれしいサプライズだった。
若芽野菜のコンポジションは、適度なバターで絡めてられ、完璧な仕上がりだった。次に続いた帆立貝の一皿も、同様の活気が感じられ、完璧な火加減だった。
そしてなんとデザートまで、そのご機嫌な快活さが続いていた。
厨房を覗くと、シェフ、マッシーモが、以前トスカーナのアンダナで働いていたことから、この歓呼はイタリア製だということがよくわかる。
とにかく、これもすべてが、人物配置にたけ、真剣な料理をだし続ける、デュカスアートの成果といえる。
投稿情報: 22:21 カテゴリー: ジャポン | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
大阪にあるギィ・マルタンのレストランとは違い、アルザスのオーベルジュ・ド・リルの、ハエベルランと、ヒラマツ(ここでもまた!)の間に交わされた契約書は、かなり真剣なものだったようだ。
名古屋の建物の一角で、内装は見事に仕上げられ、見晴らしもよく、レストランが成功するすべての要素が強行されていることを、いやでも感じさせる。
言ってしまえば、このレストランは、フランスのそれより、セクシーさをより感じるかもしれない。
原動感があり、余分がない。若くて、今の時代のレストラン。
フランス人シェフに、ここで研修をすることを勧めたいくらいだ。
いちょう蟹とキャビアとトマトのジュレは、世界中のレストランのメニューに見られる料理だが、整った一皿だった。伊勢エビのバドゥーバンとセロリ風は、世界中のレストランがそうであるように、底の深い皿に盛られ、コウノトリの足みたいに腕を広げて取りかからなければならず、食べにくい一皿だったが、味わい深いものだった。
デザートの桃のサバイヨンは、本物のデザートで、あっさりしていて、わかりやすく、風味において大成功をおさめていた。
うれしいサプライズを受けたレストラン。
投稿情報: 22:25 カテゴリー: ジャポン | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
フランス、ミオネーの、アラン・シャペルのレストランへ向かうことさえ、少々デリケートな行為かもしれない。
ご存知の通り、彼自身は20年以上前にこの世を去っている。
当のシェフが厨房にいないレストランは、今日における真剣な問題だ。
ボキューズ、デュカス、ロブション、etc… これらのレストランでは、そのシェフ自身が厨房にたっているような幻想を抱かせてはいるが、実際は違う。そんな一方で、当のシェフがこの世にいないとなると、又別の問題が上がってくる。
料理は、生きたシェフによって創造される、生きたアートだ。
レストランに着いたときから、居心地の悪い思いをしていた。
アラン・シャペルは、フランス料理界において、かなり偉大な料理人の一人で、それは、あらゆる人から認められた事実だ。
かなり平凡な若芽の野菜のサラダが運ばれてきた時に、その疑惑がはっきりした。
鯛のロティー、エビのタイム風味など、無味な料理が続き、デザートとなると(イチゴのガレット、ミルクジャムのアイスクリーム添え)、アラン・シャペルの思い出が屈辱されてしまうほどだった。
ここの食事は、詐欺師にもちかい。
思い出は、時には沈黙を必要とする。
それが、尊重の最も高潔な行為だろう。
投稿情報: 20:09 カテゴリー: ジャポン | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
今回の旅行を進めていく中で、幸運にも、東京・青山にある「クレアシヨン・ド・ナリサワ」のようなレストランを訪れることができた。
はっきり言って、ここまで訪れたレストランでは、ガストロノミーを味わう上で重要な、ある種の要素が欠けていた。だからといって、それらのレストランに、誠実味や素晴らしさがなかったわけではない。ただ、しばしば、メニューや価格の上ではかなりの存在感を持ちながら、皿の上ではその効果を発揮しきっていないような、著名シェフから置き去りにされた、ある種の空虚感が感じられていた。もちろん、シェフは厨房にいて料理を創ってはいるが、彼らはその著名シェフ自身ではなく、セカンドあったり、そのまた下のシェフであったりしていた。大抵、客はそのシェフの著名度から、彼らのレストランへ足を運ぶものだが、デュカス、ボキューズ、ガニェール、ブラ、ロブション等の本物のシェフは、その厨房にはいない。
しかし、ここは違う。
うまく言葉で説明できない、なにか気持ちいいものを感じる。
料理は、人間らしさを感じるか感じないかで、うまいかそうでないかが決まる。
その点で、このレストランでは、心から魅了される大切なその要素を感じた。
レストランの名前は、かなり傲慢だが、( 誰もが、多かれ少なかれ既に存在するレシピを、自分なりに再現しているこの時代に、本当に料理を「創造」しているのだろうか?)少し時間をかけてでてきた、バニラとトマトのオマールの一皿のように、生き生きとした才能を感じる。
他の大きなレストランでは、サービスの遅滞は欠点に値するだろうが、ここでは、それさえも、心打たれる一要素になっている。シェフは、自分の中の精一杯を出しきり、普段よりももっとうまく料理をしたがっていたに違いない。
もし、もう一度東京に来て、フランス料理のインスピレーションを最もうまく取り入れたレストランを訪れなければならないならば、僕はこのレストランを指名するだろう。
席数は少なく、それが、女性オーナーによって訓練された、サービスの質を上げている。
デザート時に、タエコが、すでに6皿目にあたる、ムース・オゥ・ショコラを頼むか頼まないかで、心を悩ませていた。
いつも心うたれる瞬間がある。
www.narisawa-yoshihiro.com
投稿情報: 20:18 カテゴリー: ジャポン | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
このレストランで、一番うまいアミューズ・ブッシュといったら、それは間違いなく、はるばると時間をかけてやってくるという、この旅行過程だろう。
実は、フランスを発つ前から、ここでのディナーはかなり楽しみにしていた。
飛行機、タクシー、電車、バスを使って、やっとたどり着くレストラン。
かなり腹が減ってはいたが、このシューリアリズムなウィンザーホテルで、一皿目が運ばれてきたときには、心から感激してしまった。
「野菜のガルグイユ」は、愛情が盛りだくさんの、すぱらしい一皿。
50種ものサラダやハーブ、種芽が使われ、このホテルの大自然と料理とが、うまいハーモニーを醸し出している。見せかけだましはなく、見晴らしのいい場所でコンコルド塔が頭を突き出すような、一種の真実味を感じた。
レストランは、常に自然と一体になっていなければならない。
これは、高潔なレストランには欠かせない義務でさえある。
そんな訳で、ナスとレモンコンフィのピューレが添えられた、カレー味のバターでポワレしたヒラメと、ピーナツのマリアージュは、容易く仕上げられるものではないと思われた。
このエレガントな一皿のコンポジションの中で、重たく脂っこいピーナッツオイルは、どんな役目を果たしているのだろうか、と疑問にさえ思う。
デザートは、握りこぶしほどの大きさの、完璧なメレンゲの球体など、見た目と風味において、これまたすばらしい成功を収めていた。
その上、心を癒されたのが、シンプルさを2倍にした、サービス陣営の優しさで、いつも初心へ戻る勇気をもち、「世界の起源」へと進む気力を感じた。それは、まさにクールベの世界ともいえよう。
ミッシェル・ブラに扇動された料理は、心温まる人間性に溢れ、それが料理にまたひとつ、いい風味を与えていた。
投稿情報: 20:14 カテゴリー: ジャポン | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
今日のランチは、足取り軽く、ジョエル・ロブションへ向かった。
六本木ヒルズのものと同様、パリっぽい雰囲気がただようレストラン。
悲しい黒衣装を羽織った料理人たちを前に、カウンターで料理を頂く。
厨房は、全員日本人だが、たびたび「ウィ、シェフ」と声をはり上げるのは、レストランによりフランス色を与えるためだろう。
アトリエで頂く大抵の料理は、シンプルなものだ。
厨房は裏側にあり、カウンターで料理の仕上げが行われる。
スペインのタパスのように、少量でサービスされるそれらの料理は、シンプルでうまく、難しく考え込まなくてもいい料理だ。
だから、このコースメニューがうまく行くが、必ずしもロブションの技術が再現されている訳ではない。
料理には、かなりマニアックで、プロシア人のようにめまぐるしく、目の色を変えてつくられた形跡を感じる。スイス製の時計のように、完璧に固定された不動の美さえもつ。
トマトとクルトンのガスパチョは、シンプルさの集大成だった。
しかし、僕が注文したのはうまそうな帆立貝のうすぎりがのったアスパラガス・・・。
気にしなくてもいい。
この類いの失敗はどこでもみられることで、笑顔溢れる気の利いたサービスの質に、影響を与えるわけではないんだから。
大きなレストランでは、大失敗にあたるかもしれないけれど、ここは「高級なスナック」。人間らしさをさらに加える材料にさえなり、どこか安心してしまうほどだ。
すずきのポワレや、赤果実のソースが添えられた、見ためもいいフロマージュ・ブラン等、残りの料理は、かなりうまくできたものだった。
すこし値は張るが、最終的に、うまいものを追求するエスプリが利いた料理。
何もコメントすることがないことに、少し動揺してしまうが・・・。
投稿情報: 20:26 カテゴリー: ジャポン | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)