安心して聞いてほしい。
半生のフライドポテトに腹を立てた連中が、しびれを切らして起こしたガストロノミーの新しい動きを指しているのではない。
それは、数年前から僕らが苦しみ続けているジレンマのことを指している。
隔離された牢獄からでてきたばかりの方や、かなりの長旅から帰ってきた方の為に、まずは簡単な前置きから。
ソースたっぷりの料理が流行った、長くて怠惰な十数年を経て、上手く狂気したヌーベル・キュイジーヌ(1973年〜1983年)の時代が訪れた。
そして、指先に鞭を打たれたかのようにして突然現れたのが、偉大な技巧を使った最高級のキュイジーヌ(ロブション、デュカス等の1980年〜2000年)。
この時代は、皿の上が食欲に満ちた玉手箱だった。ナプキンを広げて首にくくり付け、料理がくるのを待ちわびた時代だった。
完璧だったが、実は少しずつうんざりもしかけていた時代。
そして数年以来 、もうご存知だろうが 、キュイジーヌは見事な波に乗って、グルメなビストロやフリースタイルで仕事をする動きへと、扉を開いた。
この香り高いアナーキズムは、省略形を操り、はちまきを巻いた蟻の行列の中を進む者にとっては、ちょっとだけうざい存在にもなった。
これが、シェフを崇めてしまう「おぉ」といえるキュイジーヌ。
しかし結局のところ、それを口にする人間にとっては意味不明のキュイジーヌにすぎない。儀式は延々と続くが、常に腹ぺこ状態というわけ。
このナルシストな動きの中で、すごい才能が花咲く場合もあるけれど、客としては直接的に関係する問題ではない。
サーカスのテント上の状況のように、それは皿のはるか上での出来事。言ってしまえば、僕らは、シェフの存在が絶対的に必要なわけではないのだ。
その上、シェフは客席に対して、すこしパラサイトになりがちだ。
常に気が利くわけではない上、料理が遅れて運ばれてきたり、言葉やカトラリーに不器用だったり。これが、作者がそこにいる料理界で、どんどん見られるようになってきた現状だろう。
解放された精神こそ、間違いなく、キュイジーヌの中で最も手強い食材といえる。
パリにあるレストラン、ラ・ビガラッド(La Bigarrade, 106, rue Nollet – 75017 Paris T. 01 42 26 01 02)がいい例だった。45ユーロのコースは、輝かしい。
それは、でかい皿の底にのせられた小さなサイコロ状の料理から始まる。
凍結乾燥された、シェフのへその緒か?
いや違う。
なんだこれは?
その物体は、口に入れるとスポーツカーみたいに速攻消えていった。
集中力が必要だった。
2度は繰り返せないから。
次に、トリュフが帽子みたいにのせられた、帆立貝が2つ。
これはうまかった。
表現法はかなり簡潔だけれど、あっさりした魚にサラダとライムと味噌がうまく合っていた。
料理には緊張しか感じられなかったが、次の料理は、ずいぶんたってから運ばれてきた。
これが、今軽蔑のただ中にある物体が添えられたリゾット。
その食材こそが、ビーツ。
このフツーで基本的な野菜を嫌っているわけではない。
ただ、いつもいつも皿の上に登場するものだから、出来れば避けて通りたい食材になってしまった。
その味のする角柱は、はっきりいってまずかった。食感も、退屈で短すぎた。
クレモンティーヌとレモン、フランボワーズのピューレがのった、デザートのリオレ(ご飯のカスタードクリーム煮込み)もいまいちで、食事の最後には、妙な不満感が胸に残った。
それが、食べ過ぎたからなのか、食べ足りなかったからなのか、期待しすぎたからなのか、僕の陣地ではない領域に足を踏み入れてしまったからなのか、はたまた、ポップな辛酸がききすぎて、自立した輝かしいガストロノミーのせいだったのか、わからない。
数世紀先も、レストランは、「ミャム」と言いたい場所であり続けなければならない。
尊敬の念は、服従しやすい人民を好む。
ただ、僕らはそう簡単には服従しないってこと。ただそれだけ。