何だってこの件は、ずいぶん悪趣味なものになった。
あまりにすごくて、転がり回りたくなるくらい幸せな絶景に恵まれた、地方のかなりいいレストランを天秤にかけることは、悦楽を台無しにしてしまうことを意味している。
お気に入りのレストランを比べること自体、すでに間違っている。
先の細いピンで空のめくら貝をほじっている感じ。
1つ星、2つ星、3つ星?
その答えは人によって異なるから、かえって自分自身の意見を信じた方がいいのだろう。
ある人は料理のシンプルさを好むだろうし、ある人は新しい体験を好むだろう。そしてまたある人は手ほどき的な衝撃を好むに違いない。
そう考えてみると、3つ星を宣言されたレストラン「プティ・ニース」(Marseille, Anse de Maldormé. T. 04 91 59 25 92/2人で約 400 ユーロ) こそが、誤解のはじまりだった。
どれだけ、手に汗握った客や傷つけられたシェフが存在しただろう。
また、過剰評価されたレストランが、どれだけ失望の満潮と干潮を長期に渡ってくりかえしてきただろうか。以前は、魅了されて満足した客の評価だけで、正直にバランスよく経営してきたというのに。
それらのレストランは、急にハンドルを切らされたかと思うと、無理な加速の中で生き延びなけばならない。その世界では、注文が多くて、少しの失敗も許さず、最高級品の砲撃に慣れっこになってしまっている客層が待ち構えている。
パサダの「プティ・ニース」が待っているのも、こんな状況だろうと、思わずにはいられない。
トマトのジュレがのったウニ、青りんごのデザート、ひめじのロティー等、料理は華やかでよかった。
しかし残りは、3つ星を感じさせる本物のデモンストレーションがある料理、というよりも、大皿料理と小皿料理の積み重ねだった。
アミューズ・ブッシュは、色合いを思考されただけの料理も含めて、品数が多すぎた。そのせいで、自分が選んだアントレが運ばれるまでに、1時間は待たされることになった。
ピスタチオを衣にしたひめじの取り合わせ、星形アニスのコンソメ添え。
ここのアントレは、結婚式のバンケットに招待されているかのように、3皿以上が運ばれてくる。
シャンパーニュのフルートグラスを覗くコウノトリみたいに、鈍重なジェストを引き起こすことになる大きくて深い皿もその一つ。間違いなく、入り江の奥にひめじを探しに行かなければならなかった。
風味は的確だった。
鮮度の高い魚に、パサダのアートが隠されている。自然の魚を生きたまま火にかけた感じ。
しかし、この単独的な個性には、雷鳴のとどろきは聞こえない。
ガニェール、セルッチィ・デゥカス、ブラス・アンド・コーが肩を並べる、額を「パッフ」と平手打ちされるようなカテゴリーへ仲間入りしているかと問われると、首を傾げてしまうだろう。
引き網でとったルシー・パサダのすずき(77 ユーロ)は、それ自体悪くはないが、ガツンとくるものがない。トリュフがのって一段高くなったその一皿は、ソースの中で、ずいぶんとたくましい一品になっていた。
パサダはシンプルさのなかでは素晴らしいが、技巧においては少し鈍いようだ。
かつて、とんまな王様が神輿の上に乗って小銭をばらまいたみたいに、ミシュランも黄金の星を、あちらこちらにばらまいて歩いたらしい。
この奇妙なゲームは、今ではばかばかしい数字の問題になってしまった。
星の数ではドイツがイタリアを追い越してしまう。
ミシュランは、どこか遠い世界に迷い込んでしまったのかもしれない。そこは、ゆがみがなく、ガストロノミー上公正で、従順なレストランばかりの世界。
だから、「プティ・ニース」に行くなら、3つ星であることと、むずがゆくなるような値段を忘れることをお勧めしたい。
レストラン界は、遠くの異世界に落ちいってしまった。
まるで金の雲がそれを身動きできなくしてしまうみたいに。
そんな状況下のレストランを、生きた世界に呼び戻すことが出来るのは、客の存在だけだといえる。