もうなくなったと思っていた。
それが、ただ派手にへこんでいただけだった。
前世紀の1996年に星を一つ失ったと思ったら、不幸は継続した。
クロード・テライユの他界ともうひとつ、星の失脚。
こういう状況下では、さっと姿を消してしまうか、弱々しげに泣きすがるか、脱帽して観客にお別れの挨拶をしてしまうのが、常かもしれない。
その点で、トゥール・ダルジャンは、別の銀河に存在しているといえよう。
ここにしか存在しない世界だが、気にすることではない。
店内で発見するものは、ひと昔前の言語(羽飾りや綺麗な振る舞い)、コローニュ産の水、マルティン・キャロルやエロール・フリン、バニラのスフレ。
そこは、トゥルネル通りにある建物の6階に位置する、沈没船だ。
水曜日の夜は、再オープンに際して満席だった。
厨房の埃をはらいおとす工事は3ヶ月に及んだという。
あらかじめ知っておくと得なことは、ここのスペクタクルは、店に足を踏み入れた時点から始まるということ。
まずはエスカレーター。
それは数秒間だけのものだが、席に着く前の逸話的なトラベルとも言える。パリが膝より下に見える。
夕焼けが見える時間を前もって調べておくにこしたことはない。
この日は19時41分だった。
まだ客席はまばらで、店内はほぼ僕らだけだった。
キリスト教の聖歌「テ・ドウム」みたいに感動し、食べることさえ忘れてしまっていた。
メニューの質はよくて、鴨がいろんな調理法で食べれるなどの客の期待にこたえる誠実性が溢れていたから、ちょっと無駄な時間を過ごしてしまったかも知れない。
流行りのスパイスやレモン、ゆず、インドのスパイスや白菜が使われていたが、悪くない。
後は、トゥール・ダルジャンに台座から降りてきてもらうようなことは期待しない。セップ茸のポワレやブロン(ブルターニュ産の牡蠣)のグラタン等の雄々しい前菜。
最高には程遠いが、まずまずだ。
しかし、真実の勤勉さが感じられ、本物の仕事ぶりが見られた。
鴨は、何か特別な一品かもしれない。
ちょっと我に返って考えてみると、こんな、特にセクシーでもない料理がどうして人を夢中にさせるのか不思議に思ってしまう。肝臓と血とスパイスからできたソースは、茶色の塊となり、鴨のマグレがスライスされてテーブルに届く。
とにかく、謎に包まれている。
黒いベロア製のシーツの下に隠された塊。
目を閉じて味わった方がいいかもしれないが、それもできない。
客層は、描写しがたいが試してみよう。
日本人の女の子を連れた若い男、人生に疲れきった株式市場の3人組、尊敬してしまうくらい静寂で埃のつもった老夫婦、大満足しているグループ、カップルたち、多様な肌の色、グランホテルのホールに凝縮した人々。
サービス陣は、家紋みたいに目の下にくまが刻まれ、靴屋さんみたいに、大小さまざまだった。大抵よく気のつく人間だったが、それ以外はご機嫌斜めな連中で、若手のサービスもそれをまねていた。
昔は、クロード・テライユ氏の到着が、スペクタクルの一番の見せ場だった。
「ボンソワ、マダ〜ム、ボンソワ、ムッシュー」と、亡霊になってしまったその声で、僕らの血を凍らせにやってくる。不気味な気もするが、それもガストロノミーを象徴する刻印だ、受け入れようじゃないか。
息子のアンドレは27歳。レストランの後継ぎだ。
彼自身、両親がこの「銀の塔」のなかに彼を閉じ込めてしまったことを恨んでいるに違いない。クロードでさえ、この世界から身を引くことを夢見ていた。
今日、アンドレは省略しながらも、この店に腰を下ろす。
その場に姿を見せずともその存在感を漂わせ、世紀のように客席を駆け抜ける。
22時頃に彼は現れた。
最新のステンレスが彼の大きなインテリの額を悩ませているようで、厨房を励まそうと立ち去っていった。そして、帰っていった。
地上へ降りてくるまでに、エスカレーターのなかで計算してみよう。
お勘定:2人で最低600ユ−ロ。
La Tour d’Argent
T. 01 43 54 23 31
Photo / F.Simon